東海村

 東海村に原子の火がともったのは1957年、当時小学生だった私はこのニュースに、日本の科学技術の未来に胸をときめかせたものだった。が、42年経った今、日本の原子力史上最悪の事故が奇しくも東海村で起こった。続発する原発のトラブル、核廃棄物の処理問題など、調べ上げればきりがないほどの多くの問題を抱えながら押し進めてきた、原子力政策の全面見直しをも考えなくてはならない重大事故といえるだろう。

 事故当初、どのような事故なのか工場側の認識は薄かった。臨界事故と認知されるまでに相当な時間が必要だったことや、政府や関係機関の対応の遅さも、原子力事故に対する認識の甘さを露呈する結果となった。JCO社は核燃料を扱う施設でありながら、安全管理に問題があり、事故に対する備えが全く出来ていなかった。作業管理のずさんさが直接の原因とされているが、国のこうした施設や、誘致した自治体及び村民への原子力や放射線に対する指導は徹底していたのかが最も問われるべきだろう。

 放射線は目に見えない、耳に聞こえない、もちろんさわることもできない。人間の五感には全く感じることが出来ないのに、簡単に人間を殺すことさえ出来る。人類にとって放射能が如何に危険なものであるかを認識してもらう事が、原子力政策を進める上で最も必要な事であるはずだ。だが、実状は危険性をかくし、電力会社は原子力発電がクリーンなエネルギーである事をことさらに強調し、国の原子力政策に歩調をあわせてきた。

 唯一の核被爆国日本でありながら、原発は原爆とは違うものとの認識を持っている人も多い。だが、核分裂の連鎖反応が起こる速度が違うだけで、原理そのものは全く同じものである。今回の事故は爆発にこそ至らなかったものの、臨界が18時間も持続し、しかもそれが原子炉でもない、単なる沈殿槽内で起こってしまった結果、外部に放射線が放出されるという前代未聞の大事故につながってしまった。中性子線による直接被爆ばかりが報道されているが、大気中に放出された放射性物質の量がどの程度のものであったのか、今後、人体や食べ物にどのような影響が出るのか、恐らく誰にも予測できないのだろう。
これから後、原子力を語るとき、世界中の人々がチェルノブイリ、スリーマイルとおなじように、東海村の名を忘れることはないだろう。

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