川竹道夫エッセイ集
徳島新聞「視点」

模型飛行機

 3月21日付本紙、敏鎌謙次さんの「思い出この一枚」を大変懐かしく拝見した。模型飛行機競技大会に集う中学生を写したこの写真は1956年11月に撮影されたものである。
競技場となった加茂名中学校校庭の背景にかすかに見える風景は当時の子供達が「りくぐんぼっち(陸軍墓地)」と呼んでいた西部公園の麓あたりだろう。この頃の加茂名中学校は校庭が大変広く、春には周りにレンゲの花が一面に咲きほころぶ絶好の遊び場でもあった。西部公園から眉山に続く山並みを背景にした校庭は、恵まれた競技場であったのに違いない。山の斜面に沿って発生する上昇気流が飛行機を捕らえるとゴムの動力が切れてもどんどん上昇し、ついには眉山の彼方へと消えていってしまう、通称「眉山越え」と呼ぶ神がかり的な現象は当時の飛行機少年を魅了した。
 私は加茂名小学校の3年生であったが、その頃駄菓子屋や文房具屋の店先につるされていた「A級ライトプレーン」などと書かれた袋に入った飛行機のキットが始まりだった。初めて作った飛行機は飛ばす前に壊れてしまったが、その後飛行機作りに熱中し、競技大会があるときくと、出かけて飛行機の飛ぶ様を見つめ、いつかは加茂名中学校の空に自分の飛行機が飛ぶ事を夢見ていたのだ。良く飛ぶ飛行機を作るにはいろんな工夫がいる。プロペラや胴体の材料を出来る限り薄く削り、機体を軽くしなくてはならない。手には切り傷が絶えず、のりや接着剤で汚れた服をものともせず飛行機作りに励んだ。苦労の甲斐あって小学5年生の頃には競技大会で賞をもらった事もあった。大人になってからも模型飛行機への思いは消えず、30才を過ぎてしばらくの間室内飛行機に熱中したこともあった。
 敏鎌謙次さんの写した一枚の写真に、広かった加茂名中学校の校庭と美しいレンゲ畑などとともに、模型飛行機に熱中した少年時代の気持ちが甦り大変懐かしい思いがした。
少年の頃に興じた模型飛行機作りが与えてくれた熱い夢とモノ作りの喜びが、何物にも代え難い大きな物であったことを今実感している。


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