映画「ローマの休日」の一場面、猛烈なスピードでタイプライターをたたくグレゴリーペックの姿がかっこよくて、憧れたものだった。日本には和文タイプライターがあったが、言語構造の違いから映画のタイプライターのイメージからはほど遠いものであった。
英語の教師をしていた親父がタイプライターを打っている姿を良く見かけたが、何となくまぶしかった。自分でタイプライターが打てるようになったのは高校生になってからだったが、すらすら文章を打つというわけには行かなかった。
あれから三十年、アメリカ映画をきどって、文章を考えながらタイプライターを叩くという願望は、ワープロによって現実のものとなった。当初高価だったワープロも手頃な価格になり、職場では、ワープロを打っている姿をどこでも見かけるようになった。
元はといえば、清書のために使い始めたワープロだが、キーボードの入力が早くなってくると、手書きするより早く書けるようになった。何よりも便利なのは、文章を切り張りして推敲出来る事。おかげで苦手な作文も楽しみながら出来るようになった。
年賀状シーズンには、宛名書きも含めてワープロで済ませてしまうのだが、昨今はワープロ文字は味気ないと、批判の対象にもなっている。実際きれいな字体でプリントされたワープロ文字は事務的で、個人宛の手紙にはそぐわない。逆に美しい手書き文字には書き手の心が感じられ、うれしくなる。
文章作成の道具としてのワープロの出現は革命的だったが、文字に特別の芸術的価値を見いだそうとする日本人にとっては、難しい問題もあるようだ。もともと字の下手な私、ワープロ中毒になってしまった今、字を書く機会はますます減り、下手な文字を呪いながら今日もキーボードに向かっている。
戻る
powered by Quick Homepage Maker 4.81
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM